Zero-Alpha/永澤 護のブログ

Zero-Alpha/永澤 護のブログ

dz7

4182024
つまり優生思想/主義を創出し実践してきた人脈
4172024
あまりにもというか谷口さんに対する査読事案と全く同じピュアな政治力学むき出しだなあ。相当重大な対人賠償額でも百万円台に乗るのもなかなかだと常識的に思っていたがね。
東大(+京大)閥による学閥差別の発祥地は、結局はニューヨークウォール街国際金融資本(民主党政権のスポンサー)ですね。大学ならハーバードを始めとするリーグですがさらに辿るとロンドンのTHE City&オックスフォードになります。東大が国際金融資本の下部機関になっているという構造。
ありがとうございます。まだまだ現段階では荒削りで足りない点やミスがあると思います。
左右と時制の同時生成というテーマですが、まだ仮説的なものでここでは詳しくまたは精緻に述べられませんがやはり「回転操作」が鍵になると思われます。
今読んだけど個人的な見解でエビデンスはイスラエル公開の画像だけ?
ほとんど実質的な中身はなし
というかまさに今日本人がよりによってこの記事を擁護的にシェアして紹介することは非常に問題含みだと思われる。
軍事的な話題に首を突っ込んでしまったが、私はこの国の軍事関係の人脈に無関係ではない。曾祖父は大阪に軍事施設を集約させる構想を実行した大村益次郎と知己があり、陸軍士官学校の前身大阪兵学寮で数学とフランス学を教授していた。近代日本の軍事システムの育ての親の一人だったことになる。
あるソースによれば、72時間前にイランにより予告された攻撃において、極超音速ミサイル約7機が複数の空軍基地と情報基地&諜報基地に同時に正確に着弾した。米軍の最新鋭バンドレーダーは有効ではなく、その結果イランの極超音速ミサイルを1機も迎撃できなかった。古い制空権概念は完全に失効した。
ソースによれば、有効ではなかった最新鋭バンドレーダーとは、THAADシステムの一部であるXバンドのフェーズドアレイレーダー: AN/TPY-2とされている。防衛省/自衛隊はどうするのかね?
ただし今回のイランの「極超音速ミサイル」は最新鋭のものでは全くない
マルクスの『資本論』/共産主義って、実は「資本主義」の最強の「触媒(推進力)」だったんですね。ドゥルーズ・ガタリはより小規模の「後期資本主義」の触媒。これは歴史的事実認識としてわかる人にははっきりわかるんだけど。
マルクスとニーチェとアダム・スミスは市場における等価交換(つまり交換価値の存在)という神話を前提し信じている点で全く同じ穴のアレですね。デイヴィッド・グレーバーも『負債論』で指摘していますが。
なぜ囮が囮として認知できず本命のミサイルが迎撃不可能なのか、ほとんど(字義通りの意味で)数学的に明らかなのではないか?
『資本論』に嵌まると人類史を文字通り一変させた《カルヴァン主義》の途方もない力が見えなくなる。ウェーバーの『プロ倫』は絶対不可欠な仕事だったがカルヴァン主義への対抗力ゼロの(むしろその触媒でしかなかった)マルクスの『資本論』は全く不要だったのではないか?
マルクスの『資本論』と「共産主義(運動)」は「カルヴァン主義」の強力な触媒で、推進してきた(いまだに推進しようとしている)人脈もほとんど重なる。
戦闘機は完全に過去の遺物になったな
全てのリスクは「無知」に始まる→あらゆるリスクの「本質/エッセンス」は「無知」である。
リアルな弾切れと同時に。英国とEUはとっくにそうなっている。
アメリカ/米国は資金的にも弾切れになってきている。
4162024
もし空海がスピノザ『エチカ』を読んだら面白い感想を述べたかもしれない。彼ならそのエッセンスを瞬時に洞察しただろうが。
スピノザ哲学と神仏習合の日本人――または日本文化の岩盤としての神仏習合――の親和性は高いだろう。
田中宇氏もゴールドは後戻りのない上昇軌道に入ったと言ってますね。もはや超多国籍金融資本には従来のようにそれを止める力がないと。まさにゴールドが最も鮮明に告知できる歴史的転回点の到来
独在性の世界超越的な力が証/悟りに、超越論性の世界構成的な力が修/修行に対応するとも言えるだろう。これら両者はクラインの壺的な循環構造において不可分一体に作動し続けている――修証一等
4152024
そこまで見るなら、「弁証法的不可分性(弁証法が働く時、既にしてそれは分かれつつも本性的に不可分)」という形式的な定義で汲みみつくせないと思われます。
つまり時系列どころか完全に修行と悟りの実践的かつ循環的な不可分一体性を語っているのです。だからこそ道は無窮なり――仏道は窮め尽くせず終わりなき修行/悟りである。となります。
極めて重要な訂正ですが、①「すでに修の証なければ」ではなく「すでに修の証なれば(すでに修行はそれ自体で証つまり悟りであるので)」です。また②「証に気はなく、証の修なければ」ではなく「証にきわ=限界なく、証の修なれば(悟りはどこまでも修行であるので)」です。
三木清のデカルト『省察』訳は偉業
4142024
民衆の本気の力は途轍もないね→「イスラエルの抗議活動参加者は陸軍省周辺で避難する気はない 抗議活動参加者は通りから出ようとしていない」
4132024
もしカント『純粋理性批判』を「研究する」のならやはり必須だろう。だがカントとともに哲学するのなら必ずしも原書は必要ではない。
私はもはや「日本という国はない」ものと心を切り替えて問題に対峙していこうと思っている。事実主権国家としての日本という国はない。
4122024
『「からの」では、時間と空間が一体化』→この部分の構造分析の第一草稿は昨日完了→あくまでもスケッチ程度のものに過ぎないが。
4112024
昨年来続けている執筆作業は、私の経験のただなかで――例えばいつものように車内のシートに座っていた二十代前半のある日――明晰に直観した洞察の精緻で大規模な再記述に過ぎず、そのコア的な洞察に関して何一つ変わっていない。
少し前までの米国筋のイランからの期日まで示した攻撃警告情報は米諜報機関(またはネオコン戦争したい派)によるものが多かったと思われるが、今回は戦争したい派と止めたい派との暗闘の最中なので必ずしもその筋の情報ではなく詳細なブルームバーグ情報を引いてSputnikも報じている。
米国で核戦争を巡って現在激しい綱引きが続いている。その結果は近未来に判明する。
松坂桃李はこの作品で映画史に残る役を創り上げた。
4102024
現在執筆中の仕事への清水将吾氏『左右を哲学する』からの最終引用箇所(清水氏と成田正人氏の前例がないほどに重要な対話の最終部分)→今回は全体的な見取り図/構造分析しかできないが今月中にはその作業を完了したい。
4082024
この場ではまだはっきりとは言えないのですが、永井哲学や入不二哲学を嚆矢としてこの日本から生まれてきている全く新たな哲学-形而上学が向かっていくまさにその哲学-形而上学レベルにおける具体的な方向がそろそろ目に見える形で浮上してきたと近頃感じています。
ラカンをベースにした記憶痕跡の理論化の支柱は『文脈病』斎藤環氏である。
第二のポイントは「この私にとって」
もちろん第一のポイントは「逆襲が/は」ではなく「いつも起こっている」の方である。
この私にとって「逆襲が/はいつも起こっている」というのはそもそもどういう事態なのか――という究極の問い
この枢要な論点では当然ながら入不二基義氏のいう潜在性の次元が問われることになるが、まさにここにおいて永井均氏の哲学と入不二基義氏の哲学との接続点が究極的な問題として浮上してくる。
「双対性」は実在的/(ゼロ内包を含む)内包的世界において超えることが不可能な根源的規則なので、「双対性を超える数的無限性」は文字通り無内包の現実性という力の次元そのものになる。つまり数的無限性という表現はマイナス内包レベルよりむしろ現実性という力に相応しいと感じている。
時が経つにつれてますます私は、文字通り数と幾何学的存在を無限の運動性を持った生き物のような何かと感じ始めている。その根底には絶えず力が作動している。
仏陀こそが最もシンプルな「哲学の実践それ自体」を説き続けたのだということを皆さんそろそろ理解してほしいですね。
残念ながら事情によりリアルタイム視聴できなかったがこれは極めて枢要な論点であり、(ドゥルーズの「超越論的経験論」を含む)経験論的「記憶痕跡」派閥(フロイトラカンからデリダ東浩紀まで)との〈現実性〉レベルでの厳密な差別化は今後の谷口氏にとっても必要不可欠だと思われる。
4072024
WW3を止められるかどうか――何よりもイスラエルの民衆が現政権を完全に倒せるかどうかにかかっている。
国家の状態遷移にも力とその向きを伴った相転移がある。ある閾値/臨界点を超えた場合一挙に崩壊へと向かうことになる。
この国/日本にとっても他人事ではない。
特にあの2カ国は社会的無秩序化による大混乱/アノミー(デュルケム)で自滅に向かっている。
4062024
実は米国の(特に大都市の)実態はこれがほんのさわり程度の悪夢的状況らしい。
4042024
欧米(英米独仏)では既に許されない言説をした者を逮捕できる法制化がなされている。このままでは日本もその狂気の渦に飲み込まれる。そのための布石はSNSを舞台にして打たれている。
まさに嘗てのイエズス会の異端審問と本質を同じくしている。つまり人類史において極めて特殊で局所的な狂気が嘗ての植民地化の継続として愚かにも追随する日本を含む「欧米文明圏」の全体主義化と分裂(既に米国ではアノミー的な内戦に向かっている)と取り返しのつかない混乱を齎している。
昨日から多忙な時間の合間を縫って訳1月ぶりに執筆しているが、『左右を哲学する』の5箇所の比較的長い引用(あと一箇所最重要箇所が残っている)と450文字ほどのコメントのみ完了した。これからがシビアで厄介な作業になるが、さいわい昨日ほどのプレッシャーはなくなった。
このツイートスレッド今ごろ顔アカウントさんがいいねくれたのは嬉しいですねhttps://note.com/dharmazeroalpha/n/n25adb333b421?magazine_key=m4af36139bbeb… ありがとうございます。ご参考までにデカルト第三『省察』神の存在証明論です。こちらは私の大学院在学時の25歳の頃に書かれ、当時の担当教官であった実川敏夫氏に課題論文として提出されたものです。
クリプキの「クワス演算」とこの私が(根源的にはこの〈私〉が)創設する「先立つこの現実それ自体」――無内包の〈意味〉としての演算と数の意味
4022024
カントとフーコー 経験の形而上学と歴史の造型――26歳頃に執筆したオリジナル原稿完全公 https://note.com/dharmazeroalpha/n/na2add4dae67c?sub_rt=share_h… →雁琳氏の記事「「絶対的なるもの」の帰趨とデカルトの神の存在証明」と「近代への問い」という本質的な点で(それだけではないが)リンクする
そしてまさにそのことにより自動的に国民が戦禍に巻き込まれる。現体制/政権下にある限り必ずそうなる。
巻き込まれるというのは国民が戦禍にという以前に自衛隊が実戦に自動的に巻き込まれるという意味
この空爆の狙いであるWW3勃発なら現在の日米安保体制下で日本は自動的に巻き込まれる仕組みになっている。
4012024
現在執筆中の『形而上学 <私>は0と1の<狭間>で不断に振動している』本論 第3章の「附論」を転載→清水将吾氏の『左右を哲学する』(特に谷口一平氏との対話)東浩紀『訂正可能性の哲学』に関連する。永井 均『転校生とブラックジャック』41頁から引用
この二重性(持続的人格「私/私たち」を一つの項にすれば三位一体)を探究する限り、この探究は谷口一平氏の極めて拓跋な表現→「永井哲学と入不二哲学の〈外積〉を取る」といった作業にならざるを得なくなる。
ただし清水さんと私が問題にするのはむしろ中心である身体の経験に対する超越論性の方でカントによれば可能性または権利上の要請としての「自分の身体」になります。この中心性/可能性と現実性の不可避的な二重性が私身体の探究テーマになります。
ところで清水さんの言う「中心である身体」は可能性/言語性の地平でもある中心性と永井氏や入不二氏が言う現実性との区別によれば「現実性としてのこの私の身体」といった位置づけがふさわしいと思います。よってむしろ「中心である身体と中心ではない身体の区別」によって原初的に隠されてしまう。
大変光栄です。
ありがとうございます。完成された形での公開以前に何らかの形で対話できればよいとも思います。まあ何ごとも縁ですが。
「想像」についての清水さんの哲学プロジェクトにおける位置づけの「私にとっての重要性」は実は私の生涯初の共鳴する出来事で、清水さんはその意味で私にとって唯一者です。
もちろんそこからの展開地平としては先にツイートした「左右とA関係/系列」という問題において。手間取りますがこれから私が記述にまとめてからになるでしょうけど。
大変興味深くというより私自身の探究のステージをリニューアルするレベルで読みました。いずれ特に初発のコア次元の「想像」というコギトの働きをテーマに対話できればと思います。私の場合はカント『純粋理性批判』の超越論的統覚または図式機能/自己触発からのアプローチになりますが。
残る問題はサウジアラビア
30312024
これまでの探究結果からほぼ確実に言える。
30302024
幸い著者の清水将吾さんからいいねをもらいましたが、左右とA関係の対応/結合操作を現在執筆中の記述に組み込むことは核心的な論になります。これはまだ示唆にとどまるとはいえ、いずれ清水さんだけではなく永井均氏や入不二基義氏、さらに谷口一平氏も巻き込む超重要な作業になるでしょう。
30292024
清水将吾氏の『左右を哲学する』(ぷねうま舎 2024年)における「左右(の向き)」は、「A関係/系列」つまりこの私にとっての現在過去未来という「時制」(過去から現在へそして現在から未来へという時間の流れ/方向)に対応するのではないか。本書が扱う「左右の問題」は、先端物理学における「対称性の自発的な破れ」という最重要テーマにも深く関わるだろう。
既に関連したことを一度述べたが、デカルトの『精神指導の規則』と彼によるデカルト座標の創出も関係する。
このデカルトのコギトの核心部分をカントの超越論的統覚は確かに継承しているが、そこに自己触発という極めてトリッキーな捻りを組み込んだ。
ここで「私自身の問題(との共振)」とは超越論的図式または自己触発の問題→結局は学生時代からのテーマであるコギトと私の身体の問題になる。
期間限定→決定的な証拠があがった様なので、今後目に見える形で世界情勢は激変するだろう。
なぜそうなのかが問題で、入不二基義著『問いを問う』合評会でも何度か重力についてコメントした。
拙著『カンブリア革命』は一種の預言/予言書だったが、ここに来てその予言でもあった預言は完璧に当たったと言える。
30282024
通常は(例えばディープラーニング開発などでは)逆の言い方――つまり様々な違う曲線であるにもかかわらず「同じ文字」として経験されることが課題になります。
実に大事な問いだと思います。「フォントの違い」として経験されるということは根本的な哲学の問いですね。
「同じ文字」として経験されるにもかかわらず。
幸い本日ある程度時間があるので先ほどから本日届いた清水さんの新著を詠み始めている(が間歇的になってしまう)。まだ19頁までなのにすでにして私自身の問題との共振がダイレクト過ぎる。だが本番は19頁の「左右の謎」からだ。
ただ一つだけ。重力は「物的なもの(物質/物体)」ではない。
それどころかまだ「物理的なもの」かどうかも未決着――当面決着が見通せない究極の何か
ただ一つだけ。重力は「物的なもの(物質/物体)」ではない。
実に大事な問いだと思います。「フォントの違い」として経験されるということは根本的な哲学の問いですね。
「捨象されている」とは「詩的言語を含む何らかの言語によって語られていない」という意味ですか?
はい。図式化を含む力のあらゆる様態/形式が当然その産出力の産物になりますね。と同時に(スピノザ的になりますが)力のあらゆる様態がそれ自体産出力であるとも言えます。
もちろんこの「記述」の核心に「モデル化/図式化」があります。つまりこの「産出的な力」こそが図示機能/モデル化の働きです。個々の記述はむしれそれにガイドされた事後的なものと考えられます。
補足ですが、「この事態こそが副詞的に内外反復的に働く「現に」という「現実」の無限反復性の起源でこの無限反復性は、現実性と中心性の関係性という問題に直接リンクする」と書きましたのは、まさにこの反復的な力が入不二さんや私にこのように「記述させる産出的な力」だということです。
垂直方向の←これ自体表象ではありますが。
始発点、転回点といった特異点は円環/図式の外部の現実性の力の作用点/作用場ですね。
(私の表現なら、開闢それ自体の覆し/否定の<力/働き>は、そもそもの初めから自らを無限に反復し得る<力/働き>である)ということの起源ではないかと思われます。この不可避性と無限反復性は、おそらく現実性と中心性の関係性という問題に直接リンクすると思います。
前提されるのは避け難く、現実性の力の次元とその図式との解消不可能な隔たりが無限反復的に浮上することになると思われます。この事態こそが副詞的に内外反復的に働く「現に」という「現実」の無限反復性(以下続く)
当たり前のようですが、入不二さんの強調する「円環モデル」は、「(円環という)モデル」つまり円環という様態/形式を取る「図式」であると思われます。当然そうであり、この図式は現実性の力それ自体ではないのですが、この図式化の際に連続性をベースとした極限操作的な操作が(以下続く)
パルメニデスもヘラクレイトスも仏陀もシャンカラも韻文だが、最奥の秘儀は詩的言語によってしか示せない。
「今ここに」と「いつもそこに」の完全対称性の生成――『純粋理性批判』/超越論的構成最奥の秘儀
30272024
<超越論的自由>という現実性の次元/場は、これら両方向の事態への不断の振動の結節点/接続点なのだから、絶えず振動の共鳴/増幅の<渦>が生じていることになる。
訂正→上記「共鳴/増幅の」を削除 これにより、全体を以下の様に改訂→「<超越論的自由>という現実性の次元/場は、これら両方向の事態への不断の振動の結節点/接続点として、絶えず振動の渦を生み出している」
私と他人たちという当たり前の世界――私たち=人間の世界においてなぜ数学言語が絶対の力をふるうのか――その究極の理由が、デカルトでもなくライプニッツでもなく『純粋理性批判』によって解き明かされたといえるだろう。この著作はその意味で、ありのままの私たちの世界の絶対的な共犯者なのである。
私と他人たちという当たり前の世界――すなわち私たち=人間の世界が今ここに――そしていつもそこに――ある。「今ここに」と「いつもそこに」の完全対称性の生成である。
再投稿 ① <超越論的自由>という要請のもとでは、<私>-(hyphen)《私》-「私=私たち人間」の三者は、互いに不可分な三位一体 Trinity の働きとして――それを裏打ちする現実性の力の下で――現に生成する。
②《私》/言語/記憶という三位一体 Trinityの根底には、この<超越論的自由>という要請としての<私>-(hyphen)《私》-「私=私たち人間」の三位一体 Trinityが現に生成しているのである。
これを否定神学批判といったステレオタイプで捉えてしまうと終わり
30262024
① 自-他の場という<隙間/裂け目>の出現の諸様態は、<私>/《私》/私=私たち人間という三位一体と完全に対応した《人称》という概念的装置へと変換され、同時に「人称」という持続的な人格のマトリクスへと変換される。
② <私>/《私》/私=私たち人間という三位一体の生成――自-他の場という<隙間/裂け目>の出現の諸様態の人称への変換――は、私/私たち人間の<私-誰>(私自身のテクニカルタームで他の執筆箇所で説明しています)への移行-変容と相互に逆方向へと振動することにおいて接続することになる。
③ここには<超越論的自由>という現実性の次元の力が働いているが、<超越論的自由>という要請はこれら両方向の振動の接続点になる。この<超越論的自由>という蝶番は、この<私>と他人のゾンビ的完全対称性とこの<私>と他人との非対称的な対峙という両方向の事態への不断の振動の結節点となる。
この<私>/《私》/私=私たち人間という三位一体の生成と同期して、事後的に「こちらでゾンビに対応するもの――すなわちいわゆる他人」(永井均「カントの誤診」第四回10)とされるもの/者が生成する。
この事態は、自-他の場という<隙間/裂け目>の出現の諸様態の人称という超越論的カテゴリーへの変換という事態である。この<私>の実存が《私》の言語と接続するという事態は、永井氏が記述する(以下続く)
「第一人称という特殊な型を発見(あるいは発明)して、そこに現実的なそれと可能的な(いいかえれば規約上の)それとを、すなわち自分の第一人称と他者の第一人称とを、ともに含めること」であるが(以下続く)
この様に分解されつ同時に「一つに」統一されるためには、現実性の「人称・様相の形式性+有内包の差異性」への変換を産み出す現実性の力それ自体のコア領域に出現する<自己-触発>という基底的な<働き Aktus>が必要になると考えます。特に人称に絡んだ運動様式として以下が考えられます。
そのファーストステップと同時に、<私>/《私》/私=私たち人間という三位一体が「自-他の場の人称という超越論的カテゴリーへの変換」という事態とセットで生成する。
だからシャンカラといえども、『ウパデーシャ・サーハスリー』という作品を書かざるを得なかった。
〈否定〉という言語の力(無限判断的な「ではない/nonA」)は、ウパニシャッド哲学を完成させたシャンカラにおいても、統覚機能を乗り越えてアートマンへと到達するための不可欠の条件となっている→『ウパデーシャ・サーハスリー』
仏陀の徒と言ってもイエスの徒と言っても私にとっては大差はない。よって仏陀の徒/イエスの徒とワンセットで呼称している。
シャンカラによれば、「私」「きみ」「彼/彼女」といった人称は、アートマンとしての私に対して「誤って想定/付託されたもの」である。
力の蝶番/接合点としての〈私〉と〈超越論的自由〉は同じコインの裏表の関係にある。
30252024
中村元選集[決定版]第11巻『ゴータマ・ブッダ Ⅰ 原始仏教Ⅰ』春秋社 1992年 保管していた私の亡き父の所蔵本の一つに本日初めて目を通したが、書かれていることに大変懐かしさを感じた。
道は無窮なり=修証一等/果てしない時空の運動として、修行と悟りは完全に一体不可分である――道元
仏陀Buddhaとは「覚者/真理=ダルマDharmaを覚った者」であり、仏陀/仏は過去現在未来において無数にいて(出現して)構わない。だからネルケさんの先の言い方/理解が本来正しいということになる。
多忙なため約半月以上まともな作業としては途絶えていた執筆作業を先ほどから再開したが、先ほどから延べ2時間弱で明後日迄再び間欠的に途絶するだろう。
「現象学的射程と意義」に限定→「カント哲学に発しハイデガーを経由してフランス哲学において様々な形で受容され展開された「自己触発」概念について、あらためて着目し、カントとの連続性の中でこの概念が持つ現象学的射程と意義に光を当てる。」
グローバルな地政学として見ても、現代世界の最も厄介な(諸)問題の根はこれら両極のアナーキー(前者が完全統制経済)の意図的/戦略的なものを含めた混同だと思う。嘗てのコミュニズム理念の壊滅やポリコレ・キャンセルカルチャー、グローバリズムへの「資本論」「共産党宣言」の還元等
仏陀やイエス個人より真実/ダルマそのものを「直に探究する」というネルケさんの立場と一見逆になりますが実は深く共感する立場から、私はかなり以前から「仏教徒/キリスト教徒」という呼称を避け私自身に関して「仏陀の徒/イエスの徒」という呼称を使用しています。
30232024
(承前)その「ひとつ(の)」という根源的事実を超越論的統覚の働きの「Einheit(統一、一性、一つであること)」へと相互嵌入的に接合することによってそれ以上の探究を(つまりこの相互嵌入性あるいは累進構造性自体の探究を)回避したと考えます→独在性の次元の隠蔽
『純粋理性批判』における超越論的構成の最重要キーワードの候補は「ひとつの」で、この「ひとつ(の)」は「独在/ただ独り(ひとつ)在ること」という本来語り得ないものを表現していますが、第二版演繹論においてカントは(以下続く)
前回が第1版演繹論読解であり今回が第2版演繹論読解であるというステージの移行が事実としてあり、第2版演繹論に固有の形而上学/独在論と超越論的構成の不可分で相互嵌入的接合というコア的問題系があるためそこを標的にした今回の読解は不可避的に新たな深みに移行せざるを得ないと思います。
30222024
既にアップされているようですね。読解が第2版演繹論という核心的なステージに以降したことに伴い、探究の地平がこれまでとは次元の異なる深さをもった地平に移行したように思います。
やはり傭兵/外国人を犠牲にした。いつも通り
30212024
何らかの情報量の最小単位の前提なしに存在論または形而上学の構築が可能だろうか? その場合その最小単位を数(数が言語と等値可能かどうかは未知の問題)と存在論的に区別することができるだろうか? 実はその情報量の最小単位と数との存在論的な区別は不可能ではないのか?
この国は昔から外国人傭兵部隊を戦地に送り込んでいるからやり方が極めて安易→典型がインドシナ植民地戦争のアメリカへの丸投げ/ベトナム戦争→アメリカは戦後一貫して「世界の警官」つまり実のところ金融貴族の「使い走り」だった→フランスは昔から金融貴族支配の国
精密評価により通常戦争ばかりか核戦争でもロシアに勝てないことがわかったからだろう。以前から度々長沼伸一郎氏の著書に絡めた記事をアップしているが、長沼氏が言うように従来の基軸通貨ドルの核心の担保が核戦力である。そして基軸通貨の絶対的な評価尺度が金/ゴールドだ。
上記記事の内容は本質的な部分については依然として正しいが、状況の急激な変化により、質的一元管理による利潤獲得というポスト資本主義シナリオは失敗する可能性が極めて高い。
30202024
期間限定 他の国のことは言えないとはいえ、これほど愚劣なのもいなかった。おかげで寄生するだけの三流国家フランスは終わった。
CERNを政治的愚昧が先導――狂ってるね
ジュネーヴとブリュッセルはもうそろそろ終わり
言うまでもないですが、フランス語ならau revoirオールヴォワールとadieuアデューですね。マクロンがあまりにも酷いので、ドストエフスキーで描かれた様なフランススノッブとはロシア人はもうアデューかもしれません。民衆レベルではどうかわかりませんが。
「確率過程解釈が時間の対称性の導入により物理過程の連続性を突き詰めた結果、量子の離散性と衝突する」→私が繰り返し言及している内包量のアポリアの物理学的な表現
30192024
Archives 量子力学の諸解釈 残された問題 : 瞬時/同時性/唯一性/時間|永澤 護
但しゆらぎの成分を含めることにより過去方向と未来方向への時間の対称性が破れる可能性が生じる。また不確定性関係の下限がなくなり不確定性関係が成り立たなくなる。確率過程解釈が時間の対称性の導入により物理過程の連続性を突き詰めた結果、量子の離散性と衝突する。
量子力学の確率過程解釈が実在主義的解釈であるための原理は物理過程の連続性/連続の式だが、その場合時間は過去と未来に対称性を持ち、連続性は過去から未来方向と未来から過去方向の組み合わせから導出される。
30182024
「人間の心に否認がある限りどうしても場の理論になっちゃうよ」→私の妻に永井-入不二哲学の接合問題を説明した翌々日の妻の天才的な言葉
30172024
私の言い方では、開闢それ自体の覆し/否定の<力/働き>は、そもそもの初めから自らを無限に反復し得る<力/働き>である、となります。
永井氏が言う「記憶の変化自体は記憶できないという超越論的不可能性」とアナロジカルです。この記憶の変化/完全な減算という事態は無内包の現実性の力自体の<次元/場>だと思います。
違いもあるが、私が<超越論的自由>という次元で記述しようとしている事態と池知翔太郎さんが「定言命法」という次元で記述しようとしている事態がかなりコア的な地平で重ね合わせ可能→永井哲学による独在論的カント読解の地平において初めてその意義がはっきりする事態→「人間/人格」と「他者」
観測という行為が、それ自身としては現象の本質を記述する言語形式に過ぎないシュレディンガー方程式すなわち波動関数には記述不可能な/語り得ない<次元/場>を現実に捉えているという究極の謎→入不二基義氏合評会における塩谷賢氏との対話でその入口まで行き着いた。
先日永井均氏の原稿読み合わせ会で、カントが何を目指して超越論哲学を創出したのか(特に叡智界の導入)に関して東大院生の池知翔太郎氏とかなりコア的な地平で接点があった(それが全てではないが)《私》/言語/記憶という三位一体 Trinityの根底には、この<超越論的自由>という要請としての<私>-(hyphen)《私》-「私=私たち人間」の三位一体 Trinityが現に生成しているのである。
<超越論的自由>という要請のもとでは、<私>-(hyphen)《私》-「私=私たち人間」の三者は、互いに不可分な三位一体 Trinity の働きとして――それを裏打ちする現実性の力の下で――現に生成する。
《私》/言語/記憶という三位一体 Trinityの根底には、この<超越論的自由>という要請としての<私>-(hyphen)《私》-「私=私たち人間」の三位一体 Trinityが現に生成しているのである。
「概念化能力が高過ぎる顔アカウントさんの様な方が陥りやすい症状ですね」というのは典型的な概念化です→以後無限に続く
30152024
実に面白そうな映画を見つけた。これは観なくては。これもよかった作品『市子』に続いて若葉竜也が主演
https://jps.or.jp/books/gakkaishi/2019/06/74-06_352_SpecialFeature2-1.pdf… 参考 橋本幸士氏によるホログラフィー原理/マルダセナ対応の入門的解説
過分なお言葉ありがとうございます。それにしても哲学にもベクトル解析的な(現代思想的ではない「構造/力の接合体」の探究という)アプローチが必要なのでは?という気持ちがありますね。もっともこれは少なくとも私の場合永井-入不二哲学により否応なく強いられてしまうのですが---
ポイントは『精神指導の規則』が入っている点
あらためて言うまでもないが、永井氏による独在論と累進構造の構造分析論も入不二氏による現実性の力の分析論も人類史上初めての仕事なので、これから日本発で生まれ真にそれを引き継ぐ哲学はすべて人類史上初めての仕事になる。――ヘーゲルの言うミネルヴァの梟がこの国から飛び立つ
起源の発想は院生時代のものだが、つまるところは『省察』(と『精神指導の規則』)のデカルトの『純粋理性批判』のカントによる読み替えということになる。
量子重力理論または超ひも理論ではマルダセナ対応という仕事が現にありますが永井哲学は量子論的で入不二哲学は重力理論的です。これを文字通り真に受けたらどうなるか(笑)
その素晴らしい着眼点に寄せて見るなら、永井哲学の累進構造の構造分析または累進構造の構造分析として見た永井哲学を〈私〉という隠れた動力因の中枢を梃にして(力と方向を持ったベクトルの座標原点として)入不二哲学と接合し全体としては場の量子論と重力理論の統合っぽいことをやってます。
30142024
間違いなく歴史的イベントになったと思う。
補足→合評会において、私はたった一度だが入不二哲学と永井哲学の接点/接合可能点としての山括弧の〈私〉に言及した。昨年来それについて探究し書き続けているが、人前で語ったのは初めてでありとても感慨深い。
永井均氏の第5回『カントの誤診―『純粋理性批判を掘り崩す』』の原稿を巡っては、これまでよりかなり踏み込んだ議論ができた。その理由は、読解が第2版演繹論という核心的なステージに移行したことに伴い、永井氏の探究の地平がこれまでとは次元の異なる深さをもった地平に移行したからだと思われる。
30132024
皮肉/アイロニーです。
打ち上げ成功へと向けたこの非の打ち所がないコメント――感動した
自由意志による(自律)破壊――自殺
本日永井均氏の原稿読み合わせ会&二次会後の帰路の車内で谷口一平さんに聞いたのだが、なるほど彼がブレイクコア・クッシュさんだったのか! 毎回会っていたわけだがこれも一つの僥倖だな
間違いなく歴史的イベントになったと思う。
30122024
本日永井均氏の原稿読み合わせ会&二次会後の帰路の車内で谷口一平さんに聞いたのだが、なるほど彼がブレイクコア・クッシュさんだったのか! 毎回会っていたわけだがこれも一つの僥倖だな
この「実在」はむしろ実存でもしそうでなければこの「実在」は「概念的(あるいは数学概念的な)実在」となり(ゲーデル的なケースを括弧に入れるなら)証明可能(性を持つ)
このことを実感するためには、意外かもしれないが同様な意味で完璧な高峯一愚訳『純粋理性批判』をドイツ語原文と対照してより完璧な翻訳を自分で作ろうと試みるとよいだろう。もちろん実際に可能だと思えることは普通にあるだろう。「だがその訳は本当に高峯訳より完璧だろうか?」
つまり人間原理とは、形而上学段階に至った最先端現代物理学がようやくカント『純粋理性批判』の超越論的構成パラダイムに完全ではないが追い付いたという驚くべき事実そのものなのである。
これはどれだけ強調してもし過ぎることはない事実なので、現代物理学の研究者にも是非考えてもらいたいと思う。
超越論的構成パラダイムについては特に永井均氏『カントの誤診』を参照
「人間原理」は、思考/観測という行為を<超越論的自由>として要請する理性の超越論的理念である。
補足:現にある宇宙の構造の根拠」を「現にこのような人間が存在しているということ」に求める――「宇宙が現にこのようにあるのは、もし宇宙が別様にあったとすれば、私たち/人間が存在して宇宙を観測することはできないためである」という論理としての――「人間原理」
しかしもちろんポイントはまさに入角さんの問題提起または問いかけ(谷口さんも同じく)その数学的実在一元論の成立基盤へと少なくともそれへの揺さぶりとして投げかけられたということですね。私も同じですが。
または概念的対象と言語的対象を等値した上で概念的対象が結局は数学的対象に還元され得る(つまり結局は概念次元と言語次元を数学的対象の次元に還元可能)ということになると思われます。数学的対象への他者の還元が意味を持つための前提ですね。数学的実在一元論なので自他の独在性問題は消えます。
30122024
大変たいへんうかつにも今頃気づいたが、なんとこの頃から塩谷氏とご一緒させていただいていたとは! この同じジャーナルの同じ査読対象論文に塩谷氏とともに私も査読論文を寄稿していました。
ありましたね。そんな一幕が。実は私のことです(苦笑)
『問いを問う』は非常に多岐にわたりながらも一貫した入不二哲学のコア中のコアがこれでもかという具合に語られていますので、あの本を読んだだけでは難解だった数多くの読者にとっても著者による生の解説は読みの助けになり実際上唯一の機会だったと思います。もちろん植村さんの導入も貴重でした。
DMでもお伝えしましたが、昨日は貴重な対話の機会ありがとうございました。植村さん入不二さんを始めとして、皆さんと本物の哲学対話ができました。感謝いたします。非常に中身の濃い価値ある対話でしたので、何らかの形でアーカイブを広く公開するとよいのではと思います。
30102024
3月10日合評会対象テキスト/入不二基義著『問いを問う』を巡る(上記テキストそのものではないが、そこから展開される)論点の執筆済参照箇所(部分)②
3月10日合評会対象テキスト/入不二基義著『問いを問う』を巡る論点の執筆済参照箇所(部分)①
本日お会いできるのが大変楽しみです。よろしくお願いいたします。
私の亡き母も東京女子医専学年末試験勉強中に被災し若い軍人の誘導で辛うじて焼夷弾による同心円状の火炎の包囲(確実に焼死させるために計算された爆撃)を逃れた。若い軍人がいなければ確実に焼死していただろう。母はその経験を晩年エッセイに書き残している。
30092024
私自身もしばしばかなりゾンビ的である。
先にカントがゾンビだと書いたのは形而上学的な意味だったが、「実際にも(人格的にも)」カントは少なからずゾンビ的だったのではと思っている。私はその点かなり理解可能である。
30072024
この<私>の<今-ここ>における<今-ここ>とは、空間と時間を必然的に結びつけることとしてのこの<私>の<線を引くこと>という無内包の<働き Aktus>が必然的に結合する無内包かつ不可分な<今>と<ここ>という事態である。
記述記号ハイフン「-」(hyphen)は、この無内包の<働き Aktus>によって結合された<今>と<ここ>の不可分な無内包性を表現するものとして導入された。
一般化して定義すれば、『序論』を含む全記述において、記述記号ハイフン「-」は、無内包の<働き Aktus>によって結合されたハイフン前後の無内包の事態の不可分性を表現するものとして導入される。つまりそれ自体無内包の事態<A>と<B>の場合<A-B>の表記になる。
トヨタがトヨタ潰しが真の狙いである電気自動車オンリー化のグローバルな圧力に屈しなかった結果電気自動車のメッキがはがれ始めている。
30062024
それは、<超越論的自由>という無根拠な要請の働きと同時に創出される<自-他>の<隙間/裂け目>の問題である。
永井 均氏が「カントの誤診――『純粋理性批判』を掘り崩す 第4回 7」において述べている「たんなる結びつけに見えたことが、たんなる結びつけではありながら、もはや結びつけられる以前の段階に遡ってアクセスすることができないような、とてつもない飛躍と断絶を創り出すことになる」(以下に続く)
永井 均氏が「カントの誤診――『純粋理性批判』を掘り崩す 第4回 7」において述べている「たんなる結びつけに見えたことが、たんなる結びつけではありながら、もはや結びつけられる以前の段階に遡ってアクセスすることができないような、とてつもない飛躍と断絶を創り出すことになる」(以下に続く)
再投稿 『純粋理性批判』を記述しているときカントは間違いなくカントのゾンビであった――少なくともカントのゾンビとしても書いていた。でなければあんなものが書けるはずがない――と思うかもしれない。だが、実はそれが「私=私たち人間」の常態であると端無くもカント自身が露呈した。
30052024
天才が指揮している軍には勝てない。
2月27日以降1週間の間に中東を巡るつまりグローバルな戦局が一気に新たな段階に入った――神経網の切断/機能停止
金価格の急激な高騰/昨日迄 本日以降に注目
諸々の事情により非常に多忙であり特に現在は行政手続きを始めとする様々な(細かく見れば数十種類の)雑務に忙殺されている。入不二氏の近々の合評会は一服の清涼剤になるだろう(笑)。
金地金価格が急騰している。明らかな予兆
30032024
「世界はトンボである」は実践的水準――私の言い方では超越論的自由の水準――への移行またはその入口を表現していて、さらに言えば(ここで説明の余裕はありませんが)道元『正法眼蔵』「全機」「現成公案」の「鳥/空という世界」の生成という事態にアナロジカルです。
道元はユクスキュルから始まる環世界論さらにはハイデガーの世界の世界性/世界内存在としての現存在を遥かに先取りし、さらに「現実性という力」へと向かうその世界線を創出した。
最近接的な問題設定として言えば「形式としての空間の形式性」への問いになる。クラインの壺こそ無内包の現実性または独在性と言語性の断絶かつ不可分性の同時構造です。
鳥/水という世界または鳥=水という世界の生成
今や世界中の人々が日本の―近未来に予想されることを含めて―状況の異常さに気づき始めている。藤江氏の動画を見たが、あまりにも明確な解析結果に戦慄する。
先日世界のラスボスの死去に際して言及しましたが、バスカル『パンセ』の「気晴らし」を想起連想させます。
30012024
そこで私が焦点化している論点は、現実性の力の現象形態としての「除去不可能な/盲点的な唯一の穴」はカントの超越論的構成パラダイムを成立させていると同時に決定的に破綻させているということである。
穴/欠如はトポロジー的に回収可能→ただし除去不可能な穴は現実性の力の現象形態
私は拙著『〈告白〉の行方――《欠如の迷宮》とその破壊』で主として精神分析的パラダイム(ラカン-ヘーゲル的転回を含む)による「欠如」の迷宮的な隘路の脱構築を試みましたが、まさに入不二基義的な「全き無」による「穴/欠如」の内在的かつ超越的な乗り越えが本来の方向性だと思います。
つまり既述の様に文法は言語性ですから当然ですね
20292024
「力の様態/形式」という点に力または実存の次元と様態/形式または本質の次元の断絶と不可分性が露呈しています。
この私が自-他の断絶を不可分に内包するという根源的-基底的な力の様態/形式が自己触発だと考えています。哲学-形而上学の最先端の次元ですね。
これまでの哲学-形而上学では全く未解明な探究領域です。
我々の経験(我々の世界)においては、本質/言うこと(言語性)と実存/この<私>が思うことは相互反転可能性を持つ分離可能性においてしか思考/記述できない。それは厳然として先立つはずのこの私の実存を我々の経験世界において思考/記述することそして伝えることの持つ宿命のようなものである。
意味または本質と実存の対比(同時に不可分)であればむしろ「がある」と「意味する」の対比でしょうね。そしてむしろ問題なのはこの場合にも「実存またはがある」と「であるまたは意味する」が断絶しかつ不可分なことでしょう。
自殺行為は辞めないとね
フランス-マクロンだけが狂っているわけだが今やその理由は明らか(ここで言うのは控えるが)
いずれにせよ人類は瀬戸際
20282024
期間限定 これは地政学的な大変革を利用したフーシ派によるビジネスの話→さすがにこの事態を正確に予測できた者はそうはいないだろう。
世界のラスボスの死に際して――「気晴らし divertissement 」を巡るパスカルの洞察に約30年ぶりの感慨を覚えた。完璧なディストピアは気晴らしから生まれる。20262024
あらためて思ったが――サルトルは偉大だったな
本日ハーグ国際司法最晩年勧告2月26日最終期限に合わせているに違いない。日本時間8:00
20242024
グローバル情報管理に関して現在最も重要な発言
自-他問題としてAI(さらに汎用人工知能)を考えている研究者は哲学研究者を含めてほぼ皆無。
繰り返すと、大森の企図が一貫してかつ根底的に「カントの超越論的構成パラダイムの超克」だというのは変わりませんが、私の論点はその企図が(一貫して)成功していないということですね。
20232024
父親の系譜だとオノ・ヨーコは私の親類になる。
20222024
その力自体は無内包の力です。
はい。私が述べているのは文脈に乗るかどうかという言語性「内部」に限定される次元の話ではありません。
「時空系列の恒常的な反復可能性/連続性――時空系列による現象領域の穴のない完全被覆性――の不在」を大森がどう処理しているかということですが、また後で対話しましょう。
私は現在執筆中の仕事の一つの附論として大森荘蔵の重ね描きをカントの代案として批判的に論じていますのでその点についてもいずれ対話したいですね。
私は安倍公房の作品に絡めて予てからそうした事態が少なくともアートとして表現可能(かつ哲学的には記述可能)だと考えています(ということで絡めてというかむしろ最重要テーマとして安倍公房論として書いています)。
20212024
この私による想定(可能性/述定/意味の成立)とこの私の受肉/身体による媒介の関係性というテーマの例として、以前執筆した記述において、入不二基義氏のいう「マイナス内包への遡行/想定」と<超越論的自由>との関連を論じている。いずれ入不二氏および谷口氏と議論したいと思っている。
ただし上記記述の発端は永井均氏による2023年11月7日のツイートである。
つい先ほど添付ファイルにて送信しました。ご確認/差し替えよろしくお願いいたします。重要な改訂があります。谷口さんの論考は読了しました。何かようやく共有可能な本格的な議論の場が生まれたようで嬉しいです。ではまた近いうちに。
今手が離せませんので文脈外ですみませんが取り急ぎ。本日中に先日送付しました『序論』の決定版をあらためて添付ファイルにて送信いたします。よろしくお願いいたします。なお、強調文字&囲み部分はすべて(強調ですので)傍点でかまいません。
キーセンテンス④「重要なのは大前提(原罪)が成立することであり、言語に組み込まれた人称装置(次節で述べるように、それは本質的に様相化装置である)によって、それが成立するということである。」
キーセンテンス⑤「原罪後も、「私」が依然として「世界」でもあることに注意しよう。それならば、性的身体として規定された谷口一平は、世界全体を内包する概念としても「男」を獲得している、と考えることはできないか?」(「世界全体を内包する概念」は原文傍点)
6のマイナス内包を巡る論については、「内属性問題」をさらに掘り下げていく必要がある――それは、この私による想定または可能性(さらには述定/意味の成立)とこの私の「受肉/身体による媒介」の関係性へと向かう根源的な探究になる。おそらく<超越論的自由>に関わるだろう。
20202024
キーセンテンス①「「性自認」に関しては、それを第◯次内包として確保されたものだと考えることも不可能である。なぜなら「男性(女性)」という言葉は、内観における感覚的対象を名指す語として導入されたものではそもそもないからである。」キーセンテンス②「前言語的段階にいる主体に対して、言葉は、言葉の意味理解に先駆けて、まさにそこで成り立つべき意味を目がけて飛んでくる(中略)質的飛躍とは、言語によって、無が主体として開設されることに他ならない。」
キーセンテンス③「――性的身体・善悪・罪と罰・私の死、これらの成立はすべて等根源的であり、それは言語の成立のまたの名、「無」の主体への開設の異称である。」
反実在論者の量子情報物理学者には特に考えてもらいたい究極問題
そろそろまともな官僚たちも行動する時になったようだね。
プーチン――遂に行動を開始した。
谷口氏の論考1頁余り読んだだけで痛切に思ったが、やはり現在カントの超越論的方法の精緻な理解なしには哲学探究はどうにもならない(その先に行くためにも)と思う。「またカントかよ! いい加減超ウザいんだよ!!」と思われたとしても仕方ないしその思いはまったくもっともだな。何しろあの代物なので
先ほど届いたので本日読み始める。まずは谷口一平氏の論考だが、そのあとに野村泰紀、東浩紀(インタビュー)、王寺賢太、そして重信房子(インタビュー)の各氏を読む予定。もちろんそれ以外も読みたい。
もしこれが事実で、JPモルガン・チェース、ブラックロック、ステート・ストリートの3強がすべて引き揚げたら(ほぼすべての資金が消える)、世界経済フォーラムの極端におかしな企てはどうなる?
読むのはこれからだが、とりわけどの記述が禁忌のコードに触れたのか、読了すれば極めてクリアにわかるだろうという自然な予想がある。
[注36]を増補改訂して本文中の「附論 量子重力理論/観測問題/量子ベイズ主義――<超越論的自由>の不可避性」に移行した。 ただし「量子ベイズ主義――<超越論的自由>の不可避性」に関する記述は略
日新日露戦争も今回もいつもラスボスは同じだ。
20182024
残念ながら――かどうかは別として――超越論的構成というのが絶えず内破しつつ執拗に生き延びてしまう(原理的に瓦解しつつ瓦解仕切らない)仕組みなので、そのことにより「世界」を担保している。
「ドル暴落/帝国の崩壊」という予測が目立つが、基軸通貨(ドルに限らない)の基軸性の核心とは(軍事同盟総体で見た)「軍事力(特に核)」ということだ。この意味で現在西側は既に負けている。資本主義の現在 『現代経済学の直観的方法』を巡って
「人新世の資本論」系の思想はグローバリズムに棹さすもので、その提唱者たちの言説は現存のグローバリズム勢力による「ポスト資本主義」シナリオ遂行の一貫というエージェント役割を演じている→まったくどうでもいい存在(苦笑)だが加速主義ニック・ランド系も含む。
文の文脈またはフレームワークという発想というか基本教養がないのかな?
20162024
久保元彦氏最後の記述「だが本当は、現象形式の探究と、概念にもとづく認識の闡明とが一致する地平に立って、原則を、まずその純然たるすがたにおいて捉えようと努めるのでなければ、カントの思索の精髄を、けっしてかいまみることはできないのだ。」(『カント研究』創文社 1987年 所収 197頁)
その途上こそが、『純粋理性批判』のデッドライン/死線である。必要なのは、その形而上学的根拠それ自体の探究である。それは、かつてない未聞の諸地帯Zones――デッドライン/死線の横断になるだろう。
カントの目指した「学としての形而上学」は、「純粋自然科学」(久保元彦氏最晩年の論考「内的経験」末尾によればその核は「純粋悟性の原則」)の形而上学的根拠を論証するはずのものであった。だが、カントはその形而上学的根拠への探究の途上で挫折した。
「この前提」とは、「<私>を消去/排除しながら同時に「<私>/《私》の二重性の働きとしての超越論的構成」が成立可能であること」の全体を指す。
カントは、<私>を消去/排除しながら同時に「<私>/《私》の二重性の働きとしての超越論的構成」が成立可能であることを前提している。だがこの前提は成立不可能だ。超越論的構成は、<私>/《私》の二重性の働きでしかあり得ない。
これまさに庶民の実感に符号しているね。急速に生活が苦しくなっている。植民地傀儡の末期には必ずこうなる。
私の父親は2代目安田善次郎の非嫡出子だが、安田氏は安氏で中央アジア系譜だろう。私には彼の大陸中央アジア系DNAが入っている。大英帝国・ロシア帝国など〈帝国〉による地政学的グレートゲームへの私の洞察力が日本人には考えられないほど極度に研ぎ澄まされ俯瞰的なのはそのためだと思う。
20152024
完璧――つまりそれ以上さらに完全に改善/修正/彫琢しようとしても「まったく不可能」だということである。特にこの完璧さは『純粋理性批判』ドイツ語原文に関して言える。
20132024
院時代の嘗ての担当教官故久保元彦氏による簡潔な記述「ただ「私」のことだけを告知する表象」が、<私>の独在性(前後の文脈から言えば<私>/《私》の二重性の働き)と直に関係することにあらためて新鮮な思いを感じている。但し久保氏はそのことに気付いていない。
私はこの日本から始まる新たな哲学の革命をかつての理論物理学における相対論量子論革命と類比的に見ている。欧米があらゆる意味で終わりに向かっている現在、この国から始まる(永井/入不二哲学により始まった)哲学の革命は人類史を転回させる端緒になるだろう。それは〈最後の堡塁〉かもしれない。
2006年6月の入不二さんとの(植村恒一郎氏のサイトにおける)対話は私の哲学人生における決定的な指標になったと思います。そこから得た糧を新たな哲学の歴史に向けて与え返すことができれば本望です。新たな哲学(極めて優れた新時代の哲学者たち)が入不二哲学と永井哲学から巣立ち始めています。
入不二さんのお仕事の成就を心から祈っています。またお元気な姿で10日に無事お会いできることも。入不二哲学へのオマージュでもある私自身の仕事(一旦上巻で区切りをつけます)の最終ステージの完了に向けて精進したいと思います。一度ツイートしましたがいよいよこの国から哲学の革命が始まります。
ニュルンベルクというシンボル的エリア/Zone
20122024
「日本政府(植民地外来)が仕組んだ」→つまり嘗てのスノーデンの雇用者である某国諜報機関の下部組織 それにしてもNHKは酷い
訂正→「外来」→「傀儡(実は外来でもいい)」
この谷口一平氏の論考だが、ほぼ間違いなく、現在執筆中の『形而上学 <私>は0と1の<狭間>で不断に振動している』上巻Interlude2を除くラストを飾る「Archives8」あるいは(こちらの可能性の方が高いと思うが)下巻のいずれかの1章を費やして論じることになるだろう。
「カールソン氏のサイトや他の言語での公開元を除き、X 上のみ、英語のみに限ったインタビュー動画の再生回数は1 億8000 万回を記録した」→全言語の媒体で約10億なら世界の基本認識になったということだろう。
『倶舎論』&唯識の世親ヴァスバンドゥを書き忘れましたが、彼の唯識の主著『唯識三十頌』も詩型式ですね。もちろんウパニシャッド最大の哲学者シャンカラの主著『ウパデーシャ・サーハスリー』も詩型式です。バガヴァッド・ギーターは言うに及びませんが
私も90年代から0年代にかけて公的にも(詩誌&ポエトリーリーディング)詩人として活動していました(笑)
すこし文脈が拡大しますが、ゾロアスター、ベーダウパニシャッド、仏陀、龍樹、パルメニデス、ヘラクレイトス(プレソクラテス全て)、プラトン以来同時に詩人でもなかった哲学者はいないだろうという哲学の強力な系譜がありますね。ゲーテは無論マルクスもニーチェも詩人です(詩集翻訳有り)
20112024
苫米地英人氏が「日本人のIQが低い(極めて劣化している)うちに憲法改正しようとしている」と言っていたが、まさに日本人全体のチンピラヤンキー化の先兵(その結晶体のごとき集団)として総動員戦時体制を進めている。止めなければ間違いなく動員される。
大阪はありとあらゆるチンピラヤンキー化の最先端の社会実験場 このままなら大学は完璧に潰されその実験データをもとに全国の大学が潰される。既に東大と京大が旗振り役としてグローバリズムを推進している。
知的堡塁どころか(その中枢が)グローバリズムの旗振り役になってしまっているのだから東大と京大の劣化は著しい。
つまり当然のことだが、東京と大阪と京都が最大の攻撃ターゲット その次が福岡だろう。
大阪大学は次の最重要ターゲットの一つであり、定点観測の目印になる。
チンピラヤンキー化は一般的には傀儡政権下の民衆の奴隷化が目的だが、具体的にはひとえに戦時体制総動員の自然化にある。すべては戦争屋のグローバルストラテジーなのだ。これは「テレビ放送開始以後」の劣化日本人以外の世界中の民衆の常識である。
維新は100パー戦争屋の先兵として日本/日本人にビルトインされた植民地化の装置である。吉本興業とワンセットでチンピラヤンキー化を推進
20102024
極めておそろしいことに現在『1984』の「ニュースピーク」の世界がYouTube等の(今のところX以外の)ネットツールの禁止規則として現実になっている。例えば「全体主義」は使用不可ワードとして検閲/キャンセルされる。この意味は明白だ。既にグローバル全体主義なのだ。「それを指摘するな!」
上記に「少なくとも」と書きましたが、より正確には「独在性と無内包の現実性のセットからしか出てこない」となると思います。この意味で先のツイートは、デリダを現象学者最後の先端/Capとして高く評価するものでした。
「現象学は独在性のイデオロギーである」 典型的にはデリダがそうだと思います。彼の「差延」概念は独在性(少なくても無内包性/無内包の現実性)からしか出てこないはずのものなので(彼自身はそれに自覚的ではありませんが)。
20092024
これは正しいと思っている。約500前から、信じ難いほどに狂った人類史が始まったと思っている。
「現在執筆中の単著にこれまで登場した(および今後登場予定の)固有名(ツイアカを含む)」は「下巻」以降にのみ登場予定の固有名を含んでいる。長沼伸一郎、魔神ぷー みや竹 三宅陽一郎 ソル・ギョング イ・チャンドン 在原業平 つげ義春 フランツ・カフカ katoshi 佐藤未悠各氏等
ドゥルーズガタリ『千のプラトー』は学部4年に後輩と仏語で自主ゼミをしていたが(「リゾーム」「顔貌性」→もちろんその後自分でも読み続けた)、私は今でも『千のプラトー』は真に偉大な仕事だと思っている。
ノリが大切ですね。(笑) これがドゥルーズガタリを読むコツでノリをつかめれば自然にわかってくると思います。
カントの『純粋理性批判』が極度に難解だと感じられる理由は、彼が極度に完全主義的だったからということが大きい。彼の文章は悪文というよりむしろあらゆる観点から見て完璧さを目指し、しかもそれを達成している様に見える。実際、前人未踏の洞察を書くにはこうするより他なかったのだ。
20082024
②「ゼノンのパラドックスは、哲学的-形而上学的探究の端緒の地点を永遠に印づけている。つまり矛盾は解消不可能であり、極限操作と不可分であると同時にそれを内側から食い破る力/運動とも不可分である。その力/運動は、極限操作から絶対的に隔絶した現実性の力である。」
[注]の続き①「が(既にパルメニデスが「限界としての極限:断片8.42-43DK」を導入している)、それは「→∞」で表記される極限値への(方程式の左辺から右辺への移項と同様な)方向と運動という無内包の<働き Aktus>を再びパラドクシカルに前提する。」
あくまで「数学的には」
『形而上学 <私>は0と1の<狭間>で不断に振動している』 の[注]で「連続性と不連続性/離散性(あるいは有限性と無限性)の関係性を巡るゼノンのパラドックスへの対処は、数学的には極限概念の導入しかないと考えられる」と述べたがこれもその事例になっている。
20072024
「問いを問うを問う」を合わせた『問いを問う』を巡る(既に執筆済の)入不二基義哲学の根底を探究する論点またはテーマとして、もちろん合評会ではそのごく一部しか扱えたとしても扱えないですが主に以下を考えています。(以下に続く)
(承前)①「「私たちは言うことができる」という言語的最外枠の観点・・・」→超越論的可能性の「できるのでなければならない」および「現実性/独在性と可能性/他者性の落差とそれら落差の共存の反復的な産出という運動の力」との関係性
②「落差とそれら落差の共存の反復的な産出という運動/力と、「現に」という力としての純粋現実性/<>の関係性」への問い→「現に」という「現実それ自身」または「現実性という力」のコア領域において、「副詞的に内外反復的に働く」という様態が出現することの含意
③ドゥルーズ『感覚の倫理学』との関係において、「内在量/強度の原理」が記述する移行過程自体を根源的-基底的に生み出す<働き Aktus/力>の運動性が、「開」と「閉」のあいだでの振動を可能にする力として働く現実性の持つ運動性である、という論点
20062024
カントの未完の他者論という驚くべき痕跡
カント『純粋理性批判』における自-他(他者)の問題という未知の領域に突入すると難易度は極度に跳ね上がりますが、そこに〈私〉と《私》の関係のみならず「私」という持続的な「人格」との三者関係の問題が重なると真に途轍もなくなります。数十年ぶりに読んだ第3誤謬推理の記述には驚きました。
20052024
気を入れて読みさえすればぎりぎりまで細密に読み解けるはずだと私も思いますが、その場合語り得ない、またはいまだ語り得ていない領域がとてつもなく困難な探究領域として浮上します。
中国人学生の理系学力は非常に高い(つまり中国の科学技術力は実際に非常に高い)。私が以前(無論人文社会系を)教えていた中国人留学生は中国国内世界ランキング2020年時点で18位程度の中国理系専門大学出身だったが(多分)すんなり東大工学部大学院マテリアル系に合格した。
20042024
超弦理論における余剰次元と「マイナス内包/潜在性の次元」はアナロジカル
このアナロジーは単なる比喩ではなく現実そのものの記述
先日の「根底的社会契約なごときもの」という介在としての「なぜ中間にA関係の存在が仮構されねばならなかったのか」という問題とも類同的だと思われます。確かに類同的ですが、まさにこの中間的存在の問題こそが「風間くん問題」なのだとも言えるのではないでしょうか。
フーコーの「人間学化」批判にもかかわらずまたはそれ故にこそフーコーこそ完全に「人間学化」した(永井さんが以前言われていた「形而上学的問題を完全にスキップした」)現代思想の元祖になったというのは大変皮肉で面白い事態です。その意味で彼はポリコレ化の元祖でもあると思います。
根底的には「風間くん問題」に接続するメタフィジカルなヨコ問題における自-他の問題だと思います。
ドゥルーズ関しては『消尽したもの』』(Quad et autres pièces pour la télévision suivi de L'épuisé par Gilles Deleuze,Minuit)がベースですね。ただ最後まで潜在性の現実化というドゥルーズ由来の図式を採用しているので、形而上学的にはカントの無限判断の解釈との接続が問われると思います。
20032024
原一男/奥崎謙三不朽の神品『ゆきゆきて、神軍』まだ観てない人は直ちに観るべき
あと一つは民族大移動→これら二つの大波が押し寄せて欧米は文字通り崩壊(人によっては「破滅」と呼んでいる)へ向かっている。日本もこのまま引き摺り混まれるままなら崩壊/破滅するだろう。抜け出せなければならない。
いつの時代も悪しき「帝国」を倒すのは農民の反乱
上記2冊に対するあとがきでの記述「(適切な共同作業によって、ゾロアスタ-=ツァラトゥストラ教の系譜等との連結関係が探求され得る)「ギリシアの系譜」を『告白』の著者アウグスティヌスとの関係において分析する手がかりになり得る著作及び論文として、次のものを挙げておきます。」
あとがきで言及記載したのは以下の二冊 Peter Garnsey,“Ideas of slavery from Aristotle to Augustine. Fredric Jameson,“On the Sexual Production of Western Subjectivity;or,Saint Augus tine as a Social Democrat.”in“Gaze and Voice as Love Objects.”でデリダ本は本文中で言及していた。
デリダ『死を与える』ですね。あの作品は90年代に英語本で読み大変面白かったので1997年の拙著『〈告白〉の行方』の後書きであえて言及している。「自分の声を聞く」という自己意識の構造分析は言うまでもなく『声と現象』以来の一貫したデリダの根幹である。
20022024
ドゥルーズがあるときからとらわれた自身の「落下」による自殺への予期的な不安は、ドゥルーズ晩年のベケット論『消尽したもの』(Quad et autres pièces pour la télévision suivi de L'épuisé par Gilles Deleuze,Minuit,1992) がその記述的な傍証になっている。
20012024
「内属性」とは永井均氏がとくにアップデート本208頁-209頁で主題化している意味で述べた。昨日私がアップした2007年の論考はこの「内属性の記述」を本来実践すべき形ではないがその準備作業である非本来的な「一般理論」として記述したものである。
「内属性問題」の典拠「主体や自己、そして心や意識について論じる際には、だれであれじつは内属性問題を免れることができない。すなわち、論じる主体自身が現実にはそのどれか一つに内属しているという特殊な事実を無視しては、そもそも問題を捉えることができないのだ」(以下続く)
ありがとうございます。ここは章全体が入不二哲学とドゥルーズに当てられており入不二さんの記述を素材にして論じた記述量が現時点迄で最も多い部分になっています。図が不可欠ですのでそれも転載させて頂きました。ポイントはやはり力の運動様態が半円ではなく円環形成的な運動だということです。
入不二さんと近藤さんのツイートとそれに対する私の応答ツイートを素材に最近執筆した「第5章Ⅰカント『純粋理性批判』のデッドライン Ⅰドゥルーズ『感覚の論理学』から源初的な開き/裂開の運動性へ」において論じました。他の入不二哲学を巡る記述と合わせて合評会でお見せできると思います。
随分昔に読んだと思うが、ドゥルーズ最晩年のベケット論『消尽したもの』が典型→石川義正氏の『存在論的中絶』のベース
しかし昨夜読了したが最後まで潜在性の現実化というドゥルーズ由来の従来図式にとどまっていた。従ってそのままでは(全体の記述との整合性を維持した形では→そのままでは全体を通じた記述は整合性を欠いている)入不二哲学とは接続しない。
10312024
ドゥルーズがあるときから自身の「落下」による自殺への予期的な不安にとらわれたのはほぼ間違いないと思う。別に変わったことではないそれ自体としては平凡なことだが。
もう一つの典型――「微分(的)」→ただしこちらは間違いというより(間違いなら単なるナンセンスになる)むしろ単に経験的に当たり前過ぎてあえて書くことの意義が見当たらない、という場合が多い(特に哲学)。
特に哲学思想
バリ文系の研究者がうっかり使うと必ず失敗する数学的(または物理数学的)概念の代表―「確率(的)」
ただしバカバカしいほど当然のことだが、かなり昔の思考の風景を想起させる懐かしさを感じたとはいえ、同じ思考では全くない。中身的にはむしろ枢要な点でしばしば強い苛立ちすら感じる。
なぜこれを今頃―20年ぶりに思い出しアップしたのかというと、現在読了しようとしている石川義正氏の『存在論的中絶』により、私が概ね90年代から(遡れば学生時代から)0年代なかば頃にかけて思いを巡らせていた思考の風景を懐かしさとともに想起したからだ。例えばスピノザとベケット――
2004年のスラヴォ゙イ・ジジェク『イラク』のAmazonレビュー →大文字の〈行為〉とカントの定言命法
もちろんそれは次元が違うまたはズレがあるだろうと言いたくなるだろうことは承知している(その部分は私もわかっている)が、それでもやはり核心を共有している。
「内属性」とは永井均氏がとくにアップデート本208頁-209頁で主題化している意味で述べた。昨日私がアップした2007年の論考はこの「内属性の記述」を本来実践すべき形ではないがその準備作業である非本来的な「一般理論」として記述したものである。
もちろん現代思想または現代哲学においても。
そうですね。独在性とそれが不可避的に含む→記述行為そのものに食い込んでいる内属性を取り逃さない様に記述するという作業が要求されますがこれまで(多分『省察』の初動段階のデカルトの〈私〉→同時に《私》を除いて)殆ど皆無に近いほどなされてはいないと思います。
10302024
まさにそのことを先程アップした論文に書いたのですが、記述行為/言説実践における文脈生成過程(記憶自体の生成変化にアナロジカル)自体をリアルタイムに見ることの不可能性という限界に完全に自覚的であるという記述行為/言説実践のことです。
習近平がドル潰しのためにわざと不動産バブルをつぶしたのは明らかだね。トランプはともかくプーチンとは明々白々に組んでいる。
ラッセルが言うようにナンセンスだからダメなのではなくまさに論理としてこの上なく退屈
ヘーゲルによる無限判断の解釈/記述は実に退屈であり凡庸
当然のことながら、やはり鍵は「持続」(+二次的には「記憶」)をどう考えるかということですね。しかも完全に位置付けなければならない。
10292024
英米分析哲学はその端緒的存在オースティンが大英帝国MI6出身(典拠略)であっ直接例の超多国籍資本とつながっていたからこそ(英米分析哲学と差別化し)フランス現代思想は「反(国家)体制」のスタイルを取ることができた。資本主義適合的であったが故にドゥルーズガタリの『ミルプラトー』(平滑空間と条理空間)はイスラエル国防軍に利用された。原子力帝国批判は無し。
たことに見られる様に「宗主国部族主義」の典型ですが(大元は例の超財閥)、フランス現代思想の場合は少なくともミッテラン時代から(仏国伝統に忠実に)ダイレクトに例の「超財閥フランス分家部族主義」ですね。
10282024
しかし何故《私たち=人間》への等値という仮構が可能とされてしまうのかの仮説は既にありまたそれを明確に示唆する記述は終えています。その仮構は〈力/働き〉の運動性の次元の「現実には成り立たない」ある解釈に等しいと考えています。
もちろん《私たち=人間》との最初の等値も仮構です。
今思いついたことですが《持続的なもの》という次元が外的物体のみならず《私たち=人間》と等値される際に暗に《他人たち》を包摂してしまうという仮構がなされてしまっていると思われますが、問題はそれとA関係の関係性です。
根源的社会契約次元の仮構は〈私〉と《私》の同時成立(A事実次元とB系列次元の同時成立→風間くん問題の次元)がさらに同時に《私たち=人間》の次元の成立に引き継がれてしまうという事態だと考えていますがA関係との関わり等まだ考察は未完です。
「哲学では、競争相手はプラトンやカント等々」→深く共感する。アリストテレス、プラトン、デカルト、カント---等を直接の競争相手とするのでなければ、哲学などやる意味はない。
B関係つまりB系列
10272024
誰かが(永井均氏以外にはあり得なかったわけだが)いつかは「私にだけある前後左右の感覚がA事実」(〈そこ〉からB関係が〈同時に〉成立→時間の場合も同様)という決定的なことを語ってくれると思っていたがようやくそのときが来た。〈ここ〉から全く新たな哲学の次元がスタートする。
しかしこれ程的外れなことをよくここまで連発できるな
ショーペンハウエル「カントと私の間には小人しかいない」
これは決定的に重要な論点ですね。
とくに「私にだけある前後左右の感覚がA事実」の部分
この「支配集団が自国民に対して仕掛けるもの」はグローバリストの場合(つまり現在の状況だが)「支配集団が地球の住民に対して仕掛けるもの」となる。
そのグローバリストの使用人たちが「自国民に対して仕掛ける」
もともとユダヤ人、イスラム教徒、キリスト教徒は共存して生きていた。
170頁迄読む前にあらかじめカントの無限判断を論じた箇所にざっと目を通した。もちろんあらためて読み返す。
10262024
御参考②:主に2000年代における私の「汎優生主義 Pan-Eugenics」を巡る諸論考ですが、石川氏と同様に、私も90年代から現在に至るまでカントの「無限判断(領域)」の哲学的な含意を一貫して探究作業の最重要テーマの一つにしています。
私も石川義正氏の著作を昨日170頁迄読了しツイートをしましたが、石川氏による45頁から47頁にかけての小泉義之氏批判に小泉さんがどの様な(最新のドゥルーズ読解を基盤として)応答し得るのかに大変興味があります。石川氏小泉氏両者のドゥルーズ読解にとって同時に試金石になると思われます。
フランスは新たな次元のフランス革命へと向かっている。英国を含む全欧州に連動波及するはず。
アメリカは内戦へと向かっている
素晴らしいです。厳密な学的探究でそのことを洞察したのは清水さんだけではないでしょうか。
10252024
しかしドゥルーズ等現代思想系に絡んだ石川氏の思考は私自身が主として90年代に考えていたことの既視感に満ちている。
石川義正『存在論的中絶』56頁-57頁の「運動変化の存在論的条件」としての「可能的なものの領域」(が「保持されていること」として)の「可能性」は、基底的な超越論性の<次元/場>だと言えるだろう。それは入不二基義氏のいう「潜在性」としての現実性という力の領域とも言い換えられる。
参考ツイート →カント『純粋理性批判』の脱構築/全面的組み換え作業の要の一つになり得る。
言うまでもなく、永井均氏の最新の『純粋理性批判』の脱構築的な読解作業とりわけ様相を巡る議論にも深く関わる。
既に述べたが民衆の自立能力を完全に剥奪する狙い
10242024
何故そうならざるを得ないか永井氏によりかねてから「執拗に繰り返し語られて」いますね。
ストルテンベルグがあえて公的にこう言ったことは非常に大きい。彼の上司に当たる集団へのリスクある挑戦にもなり得る。さすがにこのまま破滅的戦争にEUが巻き込まれるのは避けたいだろう。翻って日本はまだこの状態か?
ラブロフには哲学がある。
10232024
量子物理に関心がある人は全員クラウザー(Dr.John Clauser)がどれほど偉大なのか(スチュアート・フリードマンとともにベルの不等式の破れを史上初めて実験的に検証)知っているので人によっては(それはかなり鈍感ですが)驚くかもしれませんね。
政策活動費というブラックボックス
まあフジサワカズキだからな
米軍まだトマホークミサイル使ってるのか---
世界の命運は(最も広い意味における)日本の哲学者たちに懸かっている→今後本格化する世界的言論統制の最大最終の(とりわけツイッター/Xを始めとするSNSでの活動)ターゲットが日本の哲学者たちである→それ故勝利に向けた最高度の自覚/覚悟と訓練が求められる。
10222024
3月一杯で『形而上学』「上巻」執筆完了予定→その後可能な限り早期の出版に向けて動きたい。
10212024
自民党というのは、それ自体として見れば単なる烏合の衆/諸派連合の寄り合い所帯に過ぎない。世界権力の◯◯持ちで辛うじて存立可能になっていたに過ぎない。だが現在状況が完璧に変わろうとしている。あるいは既に変わっている。
10202024
もちろんマクスウェル方程式は宇宙に厳然と屹立していますが。
まったくこれ程までに薄っぺらい連中が野放しになってきたこれまでの世界線はいい加減にしないといけない。
アジアの大地にナブラとローそしてEが屹立するとこうなるんですね。
まったくこういう「救済策」の方がよっぽど「残念」ですね(笑) 清水さんが高い見地からレクしてほしかったですね。理解されるかはかなり微妙ですが。
10202024
イスラエル、過去にハマス創設に資金提供=EU外相 →漸くEU外相の公式発言として主流メディアのトムソンロイターにまで出てきた。ある程度以上のレベルで地政学を見てきた者にとっては常識/当然の理路だが、あっち側のメディアが報じたということは決定的な節目の転換だ。
ドゥルーズは『感覚の論理学』で現象学と自らの差別化を行っているが、この様な基底的な水準においてメルロ=ポンティ『見えるものと見えないもの』の「裂開 déhiscence 」に取り組んでほしかった。カント『純粋理性批判』原則論の「内在量/強度の原理」をそれこそ内在的に/内側から超える形で。
10192024
「2024年以降、彼らは間違いなく農業と漁業を潰しにかかる」→民衆の完全支配のために不可欠な「自立能力の完全剥奪」
10182024
ドゥルーズは「神経においては楽天的」なフランシス・ベーコンに仮託して「生だけを信じる楽天性」を称揚しているが、これはかなり凡庸な印象を与える、というか笑える。
農漁業をコアとする人間の自立能力を皆無にしたいという強烈な願望が見える。動画の表情は切迫した焦りを露呈している。
戦時動員体制の実験としか思えない。
しかもちょうどこのタイミングでイランとロシアが軍事同盟的な包括協定締結→あからさまな米英イへのガチの対抗プレゼンです。それに先立ってイランがテルアビブ射程可能の超音速ミサイルのプレゼンをしてみせたということですね。
このとくにイランがイラクシリアパキスタン等の反イラン組織拠点のみならず何とイラク国内モサドの海外基地(表向きビジネスマンの邸宅)までも私も米国も迎撃不可能な超音速かつテルアビブまで到達可能なミサイルで破壊したという前代未聞の事態に大注目しています。
ドゥルーズ『感覚の論理学』における「感覚」と「図像」は内包量の「移行/系列」の「連続性」を前提している。半分無内包の〈移行-変容〉にかすってはいるが。
10172024
参考 【日本発の数学理論 IUT理論とABC予想】京大・ #望月新一 教授のIUT理論を気鋭の数学者が徹底解説/ドワンゴ創業者・川上量生氏がIUT理論「決着」に賞金をかける理由
直前のツイート参照→「数学的構造」と直観形式、汎用人工知能AGIについての『本論』での注記 加藤文元氏の著作/論考はかねてから参照しているが非常に啓発的。
参考 : 数学的構造と直観形式、汎用人工知能AGIについての執筆中の『形而上学 <私>は0と1の<狭間>で不断に振動している』「本論」での注記→次のツイート画像
であるならそこには民衆の絶対の抵抗が生まれる。また現に生まれている。その力が最後の拠り所になる。
10162024
直前のツイート参照→入不二基義氏により探究されてきた無内包の現実性あるいは現実性という力と「極限」の関係性
能登は既に体制にとって存在しないエリアとして位置づけられているのではないか?
ご参考までに、この「極限」について執筆中の『本論』[注1]で次のように書いています。次のツイート画像参照
「現実性という力」による〈私〉と時-空の〈隙間/裂け目〉を孕んだ同時創出という根源的な〈次元/場〉の探究と記述を継続しています。現在作業は暫定中断していますが。
見落とされがちだが新鮮な事実→計算機/コンピュータは無理数を扱えない。10152024
(承前)「いまだに戦いの相手にしているものです」と書きましたが、雁琳さんの一連のツイートと深く関連すると思います。
(承前)「なんて言ったらいいかわかんないんだけど、とにかく不気味だった」と注目の発言をしていました。思えばこの不気味さとそこに潜在するすべてこそ、それが現実化するすべてとともに、その不気味さに呑み込まれ精神が壊れかけた思春期以来私が長く戦い続けてきたものだったし(以下続く)
私はかつて拙著『カンブリア革命』2013で「映画監督の富田克也が相澤虎之助との対談で、「国道二十号線の方がまだ物語が発生する余地があるけど国道十六号線は荒涼としている道路が一直線で、脇に入ると暗い中に旧家のでかい家がどーんとあったりする」(以下続く)
パルメニデスからの引用訳文とディールスクランツの典拠箇所は納富信留氏の論考「「ある」とはどのようなことか?」(『現代思想』特集「ビッグ・クエスチョン」)を参照した。
本質と実存が相互反転可能性のもとでしか思考/記述できないという厄介さの起源はパルメニデス(「同じそのものが、思惟され、ある」断片2+3DK)だが、そのパルメニデスが「丸い球体の塊のように」「限界としての極限」(断片8.42-43DK)という幾何学的純粋直観の比喩から出発している。
もちろんマンマさんのいう「自立的なもの(の浪費)」をさらに考えていく必要がありますが。はい。宇沢弘文はまさにその「記号消費」の外部を初めて捉え新たな次元の経済に組み込もうと(同時にそれまでの「経済」をドラスティックに組み替えようと)したのだと思います。
10142024
負債を巡る「会計言語」だけに食い込んだ「私」「現在」という人称と時制の矛盾したセット
(承前)飛び越えてしまっている議論)――を超えた哲学的な新たな地平が開けるだろう
フロイトの「多型性欲仮説」の妥当性はどうなんでしょうかね? ドゥルーズ/ガタリ(n個の性)また広くポストモダンの「精神分析批判」はまさに「そのフロイト」への回帰だと思われますが。(ただしより広いポストモダンの地政学的文脈は括弧に入れます)
宇沢弘文が先駆した方向性ですね。
10132024
比喩的に言えば、量子論と相対論のパラダイム革命によって旧来のニュートン力学が否定されたわけではないので。しかしこのツイートは「若者への悪影響」という典型的な道徳的非難の言説で、ソクラテスが全く同じ非難にあって死刑宣告された事例のありふれた反復になっている。
今年5月迄が正念場です。この世界線はデッドライン(死線)でもうあまり時間がありません。
10122024
最大限かみ砕いて言えば、物理数学の究極課題は「重力と時空の関係性」を完全に定式化すること――完全な量子重力理論の構築――である。周知の様に超弦理論も未完成である→「それは既存の数学では無理かもしれない。次世代の数学に期待すべきなのかもしれない。」――『究極理論への道』米谷民明氏の言葉
松本大洋『鉄コン筋クリート』だけが表現し得たあらゆる時空のミックス
ついに日本の政治の実態が極めて分かりやすい形で世界に暴かれた。
10112024
後程じっくりと読みたい。 松本大洋「漫画を嫌になりたくなくて」。メール取材で明かす『東京ヒゴロ』でも描いた創作の苦悩と喜び | CINRA
先程からプリントアウトして読んでいますが、10の注で述べられている「この課題を飛び越して哲学することなどおよそ不可能だとさえいえる」の「この課題」を飛び越していない「哲学研究者」はもしかすると殆どいないかもしれない―という想念がよぎりました。
安倍公房 『人間そっくり』 これには驚いた。レビューでクリプキに触れたがクリプキなどどうでもよかった。本当の核心は別にある。
私の曾祖母佐々木濱子の著作『島物かたり』 カリフォルニア大学にも所蔵されているらしい。
10102024
『洋算例題』表紙
私の母方の曾祖父佐々木綱親(貞庵)の著作『洋算例題』(自宅所蔵)
著書『洋算例題』(私も所蔵しています)の出版年は1871年です。
私の母方の曽祖父佐々木綱親(貞庵:1838-1903)[蕃書調所=洋書調所=開成所仏蘭西学蘭学教授・京都兵学校=兵部省大阪兵学寮(後に陸軍・海軍兵学寮として東京に移転:陸軍兵学寮は陸軍士官学校の前身)数学教授・伊予宇和島伊達藩医]は福沢諭吉の同時代人で大村益次郎の親友ですが(続く)
長らく放置していた「<自己-触発>と《X=AGI/他人》を巡る仮説」の記述の残り部分を完了
本日約一月ぶりに執筆作業を再開した。
対露戦での西側の軍事的なリソースがいよいよ枯渇しつつある。ガサでの破滅的焦土作戦の行き詰まりも含めた袋小路だが。もちろん同時に資金的なリソースも枯渇。
10082024
#南海トラフ 伊方MOX原発への対抗運動は私の一つの原点
こんなとんでもない人が代表と思ってたがようやく
日本でしかあり得ないと思う。
現在急速に世界覇権の交代が起きているが、そのインパクトは凄まじい。間違いなく人類史上最大の変革が到来するだろう。
吉本興業終わりの始まり
米イラン(バックに露)戦争→ホルムズ海峡封鎖&デリバティブ618兆ドル崩壊の可能性が切迫
玉木氏は財務省ばかりではなく原子力ムラの代理人でもあった
50億どころではない巨額の支援の上に米国経由の武器輸出解禁
他ならない世界システムの指令に従った政権によって日本はSF世界/現実世界に突入してしまった←特に8:40当たりから
目を背けたくなる現実だが哲学研究者も観るべき
特に哲学研究者こそ観るべきと言えるかもしれない。
当時は「遺伝子治療という名目(によるエンハンスメントを含んた遺伝子改変)」という広い文脈で考えていた。
既に行われている。一番の深刻な焦点は「人間の生物兵器化」
つまりDNAレベルの改変可能性/潜在的力能を持つ「ワクチンの治験」といった領域がメインターゲット→15年先の現在を予見していたと言える
画像② 事例としての原発事故 ただし本論考で主題化しているのは生体(政治)工学的介入事例である。
先の論考画像①→事例として想定していたのは原発事故
とくに池知 翔太郎氏の問いと発言はどれも示唆的で参考になった。
「活断層(かどうか)」というのは関係者が決める「定義」
10072024
一度ここで述べたが、ウクライナがああなった今日本が世界で唯一の実験場になっている。また世界で唯一の大規模ワクチン生産基地 ←しかしその歴史的なルーツと必然がある。
10062024
日本のメディアだが、このまま変われなければ消滅するほかないだろう。
CNNはこれまで一貫して100%あっち側のメディアだったがここに来て変わってきた。世界は激変している。ところでNHKはどうなる?
10052024
本日の永井 均氏のカント連載原稿検討会は量質ともに非常に掘り下げた議論ができた。互いに関連しつつ多岐にわたる論点の議論がなされ、新たな次のステージへのブレイクスルーになった。まさにこれからカント『純粋理性批判』の最中枢/コア中のコアに突入していくことになる。
しかしそれでもいつでも(後からでも)積み上げ登攀作業を開始すれば理解可能だろうが。
永井均氏の哲学はリアルタイム的に一つずつ理解を積み上げその積み上げをそのつど前提として登攀していくという(数学全体を学んでいくような)作業がなければ殆ど理解不可能だと思われる。
入不二基義氏の哲学は最初から(『相対主義の極北』からだが少なくとも『現実性の問題』から)いきなり完成されたユークリッドの『原論』(またはアインシュタインの『一般相対論』や集合論のZFC公理系)が与えられているようなものなのでリアルタイムでなくても演繹的理解がそのつど可能だが(続く)
10042024
この「端的にそこから世界が開けている」の「そこ」こそが形而上学プロパーの問題/テーマ
(承前)「、という事実である。この事実が感性的な空間世界の出発点である。」
永井 均「カントの誤診」第1回における最重要箇所の一つ「ここで重要なことは、原初においては、それ「しかない」もの、端的にそこから世界が開けているものにも、それにもかかわらずやはり、その世界の内部に位置づけられうるようなこの前後方向が(感性的にアプリオリに)存在している」(以下続く)
10032024
「序論」改訂版で登場する固有名→カント 永井 均 レーベルク デカルト
@halching1
さのたけとtaketo1024 谷口一平 アンセルムス ゼノン リーマン マンデルブロ ジュリア ヒルベルト 久保元彦 ルイス・キャロル ※入不二基義氏は「序論」においては通奏低音で「本論」で前景化する。
私の仕事でジャンル的に言えば(ソーシャルワークというタイトル通り)最も「社会性(身内ではない他者との関係性)」に富んだもの。
「序論」改訂版で登場する固有名→カント 永井 均 レーベルク デカルト
@halching1
さのたけとtaketo1024 谷口一平 アンセルムス ゼノン リーマン マンデルブロ ジュリア ヒルベルト 久保元彦 ルイス・キャロル ※入不二基義氏は「序論」においては通奏低音で「本論」で前景化する。
12312023
これ程ペラい攻撃雑文が「書ける」こと自体が彼の「デリダ研究」の無意味さを如実に示している。私自身はそうではないが、かなりの人間には真正の「怒り」を惹き起こすだろう。
彼女は延々と私物語をして無関係な文脈に無理やり接続していますね。カテゴリーミステイクの典型
現在執筆作業を中断しているが、その仕事においては既に執筆済の、槙野氏のあるツイートを巡って反転図形の運動性または力の次元の考察に絡めたかなり突っ込んだ記述だが、予定通り記述は残す。だがそれにしても彼女には愕然としたというか呆れた。
12302023
無論彼に限らないが。原子力帝国フランス
「なんでこんなのがデリダなんかやってるのかね(苦笑)」といった反応しか喚起しない様な研究者を見かけるが、実のところデリダは欧米体制内リベラルの部品機能以外の機能を果たしたことはなかったわけだから「研究対象」としては適合している。
『純粋理性批判』における神の現存在の存在論的証明批判を汎通的に規定された最もレアールな存在者/必然的存在者の現存在証明批判として考察 久保元彦「神の現存在の存在論的証明に対するカントの批判について」東京大学教養学部紀要『比較文化f研究』第八輯 1968年『カント研究』創文社 1987年
私は20代以降カントのこの方便的操作を〈規則化のAktus〉と名付けている。現在は少なくとも表立っては使っていない。
だからこそ『純粋理性批判』の対処方法というか方便は統制的理念の図式に到るまですべて「(アプリオリな規則による)規則化」にならざるを得なかった。
彼にとって「意外によくある」のはそれだけ排除不可能だからでカントもかなり手を焼いていたはず。数学と違って哲学は実存そのものの深く大きな振動と探究が連動するので彼も相当厄介な生を生きたのだろう。だからこそ極度に生活習慣を規則化した。それ以外に身心のバランスを保てないのだから当然だ。
先のツイートの「「人間理性にとっての真の深淵/自己分裂そのものの根源」への問いに「カントは直接答えようとはしていない」つまりその問いを「われわれはいかにして「動揺状態」から解放されうるか」という問題への「移し変え」によって回避した」もカントの無自覚-無意識的な行為なのだろう。
無自覚-無意識に「実はそうかもしれない」が日頃隠蔽されている気づきのような何かが意外によくある失錯行為としてカント自身の気付かないところで顔を出すということだと思います。その何かは『純粋理性批判』/カント自身の思考が排除できないものとして紛れもなく内包しているものだと思います。
この場で精緻な議論は不可能なので以後議論は控えるが「実存として」と「人間として」の無自覚な等値はまさに致命的
12292023
〈私〉の独在性と《私》(さらに「私」)の持続性との関係という問題系において最重要なポイントの一つだと思います。それにしてもカントは「総合的統一が必要である条件」について、ここでどこまで(精密に見てどの水準で)躓いてるのかは極めて難しい問題です。
このカント自身の枠組みから見ての誤謬に関するツイートは、永井さんの先のツイート https://twitter.com/hitoshinagai1/status/1740585627991806353… における「「自認」の持続可能性」の問題に直に突き刺さりますね。該当箇所を見てみましたが、そこでのカントの「人格 Person の同一性」についての記述が(続く)
つまり、「〜の方向で探究すべきという一切の研究を予め先導する統制的理念/原理の図式」のラスボスと言うべき「善」とは、カントにとって理性の自己分裂という真の深淵を回避するための「方便」である。彼はそれによって真の深淵が閉じられたなど実はかけらも思っていなかったはずだ。
久保元彦氏の結論→上記「人間理性にとっての真の深淵/自己分裂そのものの根源」への問いに「カントは直接答えようとはしていない」つまりその問いを「われわれはいかにして「動揺状態」から解放されうるか」という問題への「移し変え」によって回避した。ならば統制的理念の図式は問題の回避になる。
カントが「人間理性にとっての真の深淵」を語るとき、この「ギャップ/謎」への問いが「思弁的理性のかかる不可避的な自己分裂そのものの根源への問」(久保元彦「神の現存在の存在論的証明に対するカントの批判について」)として浮上する。それこそが「善」と「道徳的な「べき」」への問いである。
つまり「ギャップ」とは「無ではない何かがあるということ」そのものである。
この「ギャップ」に基底的に関わるかの有名な「第一哲学の問い」→「なぜ何も無いのではなく、何かがあるのか?」
この場合「善」は「道徳性の次元」/「道徳的な「べき」」(青山拓央)に対する《超越性》/「ギャップ」を有する。「究極目的/終わり」(アリストテレス&カント)の「起源」は問えない。と同時にその問いは不可避的に生成する。
言うまでもないが、ここで述べられている「統制的理念/原理の図式」としての「善」は、青山拓央氏のいう「原初的な前提としての「べき」」(の由来/起源への問い)に深く関わる。
私が昨日ツイートした「分析哲学へのパラダイムシフト戦略」に対する批判的射程を結論部で提示している→身体と言語の不可分な相即性を言語の側から完全統御していく方向性を常態化させるもので貨幣や医療情報等の完全データベース化はその一例→私の概念では「生体政治工学」的介入戦略
再視聴したが「やたら思弁的であり、正直私には何がしたいのか分からなかった」というX引用コメントには驚愕した。これほどわかりやすく語っている事例はないだろう? 根底的に潜んでいるのは「言語と実存/本質と実存」という本命中の本命の哲学的問題だからね。


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